2011年05月08日

祖父の従軍写真③ 歩兵第79・第37連隊

さて今回も前回に引き続いて祖父の従軍写真を御紹介したいと思います。

前回の末尾で日中戦争(支那事変)の写真はこれにて終了と記載しましたが、
もう少し撮った画像の残余がありましたので今回はそれを御紹介致します。

以前から注意書きとして記載しています通り、、半世紀以上のものとはいえ、当方の祖父個人の写真
又、所属連隊の戦友の個人写真なども含むため基本的に無断転載はご遠慮ください
(人の事言えたクチなの?馬鹿なの?死ぬの??と思ってらっしゃる方はサーセン!!w)

従軍写真の画像によっては当ブログのURLを挿入していない画像がありますので、それは好きなだけ転載されて結構ですよ~


それでは早速・・・



1、こちらは現地でのお祭りの風景です

よく見ると旗は日本国旗だらけですねw
日本軍兵士への慰問、見世物として催されたものでしょうか?


 
2、こちらは現地(中国)の祭りの舞いか何かのようです

お面に服装も踊りもやはり日本とは違うと感じます。
中国でも地方によって様々な風俗や文化があることでしょう。



 3、連なる断崖の間を進む兵士たち

画像が少々見難いですが、それは写真自体が大変小さい(現在の4分の1ほどのサイズ)なので
撮るのが難しいからです・・・w

しかしこうした峰々だらけでは中国軍に伏兵されてもおかしくないですね・・・
実際に装備の貧弱な李を積んだ後方部隊、補給部隊などでへの襲撃は多かったようです。



3、○○城の戦跡を巡察する将校


かつての戦跡のようです。鉄条網が凄いですね。

 

4、万里の長城の線を越える我が部隊

南下して歴史に名高い万里の長城の線を越えるところのようです。
しかし万里の長城は残念ながら見えませんね・・・


 

5、中国人苦力達との写真

よく一部の方は戦地での苦力日本兵による強制徴収(脅しにも似た)と言ったりしていますが、
実際のところはどうなんでしょうね。日本軍からしてみれば人手不足は深刻な訳で、
一部では強制的に捕虜を使ったり、一方で食に困らないためずっと部隊に随伴したという話も聞きます。

まぁ経緯は様々ですね・・・


 

6、山西省心○○○村にて竹中○○君

写真のキャプションから日本人のようです。
日の丸を持っているところをみると変装して敵状偵察の任務などにでも付いていたのでしょうか?
それとも宣撫工作でもしていたのでしょうか・・・?w

まぁ写真では1人だけですので写真を撮るために中国服を着てみたという可能性もありますねw

 

7、第二班の戦友

祖父の所属する班でしょうか。戦友というキャプションが何ともいえませんね。


 

8、大黄河を臨む風景

凄い絶景ですね。山の形も特徴的です。
よくこんな広大な大陸で戦争を何年もしてきたものです。


 

9、山西省の何処かの鉄道線路上での部隊の記念撮影
前列真ん中の兵士が持っている白い物は戦友の遺骨です・・・

昭和14年1月撮影でしょうか。

 

10、 雪の聞喜城


部隊が宿営又は駐屯していた城でしょうか。
殺風景といいますか、淋しい光景ですね、

さて日中戦争(支那事変)の従軍写真は以上になります。

今回は写真とは別に祖父が戦後記した従軍記における参加戦闘一覧を御紹介致します。
幼少の頃、祖父が何か日記書いてるのかなぁ・・・?と子供ながら思っていたのですが、
恐らく従軍記などその類を記していたのでしょう。

戦後50年近く経過してからですが、さすがに祖父自身の当時の記憶を辿っての従軍記を記すのは難しかったと思いますので
恐らくは当時(従軍中)の日記などを元に清書しながら記していたのだと思います。

それでは画像を









  
以上になります。
これ以降は内地へ帰還し、歩兵第37連隊転属した後に召集解除となりました。

続いてこんな物まで最後に祖父は従軍記に記載しておりました。









  
所属する歩兵第79連隊第2大隊戦病死累計表です。
このようなデータは所属する連隊史などを参照すれば記載されていると思うのですが、
何故かわざわざ表を作成して事細かな記載しております。
個人の従軍記でそこまでするのか・・・・!

祖父は生真面目な性格のようでしたので、末尾には必要と考えたのかもしれません。
それに正式な戦病死累計データ少々食い違う部分もあるかもしれませんね?w

さて今回は以上になります。
最初にも記載致しましたが無断転載厳禁でお願いします。

もし祖父と同じ歩兵第79連隊、第37連隊所属の方を親族に持つ方がおられましたらご連絡下さい。
当方の撮った画像で宜しければ差し上げます。

次回からは歩兵第37連隊転属後に従軍した東南アジアでの画像を御紹介致します。
でわでわ~






タグ :日本軍写真

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Posted by アンチョビことチビ at 12:03│Comments(43)旧日本軍画像・写真
この記事へのコメント
絶壁の間を行軍している写真は確かに待ち伏せを受けると悲惨なことになりそうですね

遺骨と共に写る集合写真も何か生々しさを感じます

それにしても写真のみならず従軍記録まで残されているとは凄いですね

こちらは依然サッパリな状態なので羨ましい限りです

最近新たに太原攻略戦で起きた「娘子関の戦い」で現在探している部隊と同名部隊が参加していることを記している回想録本があるのを知ったのですが
本が絶版の疑い+太原攻略戦の参加兵力欄に歩兵第8連隊が入っていなかったことに落胆中です……
Posted by YAS at 2011年05月08日 17:30
>>YASさん

こんばんわYASさん!
YASさんのご祖父さんも太原作戦に参加された可能性があるのですね!?
と思いましたが、確かに歩8連隊は参加されておりませんね・・・

私の祖父はこの時期、第20師団として参加していたのですが、
もしかしたらYASさんのご祖父は同師団に所属していた歩兵第80連隊の可能性もあるのではないでしょうか・・・?

こちらは編成地は朝鮮半島ではありますが、
私の祖父と同じように大阪出身の方も多かったかもしれません。

ただ単に8と80と数字が似ているという点ではありますが・・・w
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2011年05月08日 17:43
>>アンチョビことチビさん
あくまで推測が第8連隊なので別連隊の可能性は捨てられませんね

現在回想録とは別にネットで見つけた手掛かりを記載された人(その人の祖父が探している同名部隊に所属)へのコンタクトに挑戦しているのですが、手掛かりが5年前の記事かつ掲載元のサイトが1年近く更新停止状態なので返信が来るのか心配です…
Posted by YAS at 2011年05月09日 00:43
>>YASさん

おお!ネットで手掛かりになりそうなサイトを発見されましたか!

とはいえ、やはりHPは廃れたりと流れの速いネット・・・
有益な情報が手に入れられること切に願うのみです・・・!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2011年05月09日 19:04
私の父は昭和19年6月ニューギニアは戦死しましたが、支那事変は貴方の祖父と同じ歩兵第79聯隊(森本部隊)で第1中隊でした。支那事変が始まった当時の旅団長は山下奉文少将(後大将)、聯隊長は奈良県出身の森本伊市郎大佐で、聯隊騎手は堀江正夫少尉(戦後:陸自陸将、参議院議員)です。 父は大阪府枚岡(現:東大阪市出身)で、現役は朝鮮平城の歩兵第77聯隊でした。  御存知と思いますが大阪護国神社に昭和50年代皆さんと一緒に79聯隊の碑を建立しました。 碑文も書いて有ります、おそらく貴方の祖父とも一緒だったんではと思います。     
  枚方市楠葉美咲三丁目14の11     村上 功
Posted by 村上 功 at 2012年04月08日 11:58
>>村上 功さま

はじめまして村上 攻さま!
御父上はニューギニアにて戦死なされたのですか・・・
かつては私の祖父と同じ歩七九連隊所属ながら過酷な最後を迎えられたのには申し訳なく思います・・・

旅団長はかの有名な山下奉文閣下ですか!
日本戦史において欠かす事の出来ない聡明な御仁の下ですとは
まさに光栄極まりませんね・・・!

連隊長は奈良県出身の御仁なのですね。
私は生まれは大阪ながら育ちは奈良県ですのでとても親近感といいますか
嬉しく思います!

しかし歩七九連隊は素晴らしい方々を輩出なされておりますね。
私の祖父が存命ならとても嬉しくそして懐かしく思いながら村上さまのお話を伺ったことでしょう。

大阪護国神社の七九連隊碑は私も存じております!
祖父は祖母と伴って建立の式に出席したようで写真で残っております。
去年、職場が一時住之江でしたので大阪護国神社はすぐ傍にありました。
一時期とはいえ歴史と縁のある護国神社の傍の職場でとても嬉しかったです。
神社へ入る度、そして通り過ぎる度に奉られている先人の方々に感謝そして尊敬の念を感じずにはいられませんでした・・・

祖父が出征直前の従軍記にはこのように書かれていました。

勇躍征途の機に會し男子の本懐これに過ぎたるはなし。
中隊班内における戦友間の情愛真に増したりし。

祖父は後に歩32連隊へ転属致しましたが
村上さまの御父上さまを含め同じ連隊将兵たちに無上の誇りと尊敬の念を感じていたと思います。
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2012年04月08日 12:44
早速の返書掲載有難うございます。 支那事変勃発から北支戦線は表道は歩兵第77聯隊(聯隊長 鯉登行一: 鯉登部隊)、裏道を歩兵第79聯隊(森本部隊)で、両聯隊共「勇猛果敢」で従員補充は三十数回に及ぶ激戦だったと聞きました。故に昭和15年の第1回論功行賞で「武功抜群」による「金鵄勲章」拝受者が多かったです。新聞に氏名が掲載された時、母が同姓同名では?と言い父は「生きて帰った事が奇跡で、自分は拝受に値する働きをした」と言ったそうです。 昭和50年金鵄勲章の復活を願い「全日本金鵄連合会」が出来ましたが、1代限りの佩用が許されただけに終わりました。昭和52年私は「金鵄会」で知り合った大阪府の方々に体験記をお願いして、支那事変40周年記念として「鵄(とび)」と言う本を作りました。 その中に第三大隊長山崎孝三様(当時少佐)貴方の写真「、○○城の戦跡を巡察する将校」の左から2番目の方です。 此処に山崎様の手記を送ります。

      
          聞 喜 城 死 守                 
                功四級  山 崎 孝 三

昭和十三年五、六月の頃、私の大隊は、山西省聞喜県城に在って、当時中国軍でも精鋭とされた第三戦区、衛立衝軍,約二ヶ師の敵に、約五十日間包囲された。  文字通り、昼夜を分たず、間断なき銃砲撃を蒙った。一週間分の糧食、弾薬を保有するのみで、全く補給の目途が立たず、この先いつ迄、籠城するか解らぬまゝ、射撃応戦を禁じ飢えに耐えた。
敵もさるもの、最後には百米位の所から坑道を掘り、高さ十数米、巾四、五米の城壁の一角を地下より爆破崩壊せしめ城内に「ワンサイ」「ワンサイ」と叫び乍ら突入して来た。 こういう情況下、ともすれば志気の衰えんとすることをおもんばかり城壁上の守備兵を激励するため南門望楼に腰をかがめて近寄ると白墨で誰れが作ったのか       
       聞喜城死守
    敵ハ増シ 緑リハ茂リ 月未だ出デズ
    弾薬ツキルモ 援隊ヲハズ
    ナレド敵弾城壁ヲユルガス
    糧秣ニカエン 犬マダ多ケレバ
    粉骨砕身以って死守セン
    決意ハ堅シ 聞喜城
の詩が書いてあった。実感がこもっていた。感動した。志気の未だ衰えざることを知って意を強くした。月は皓々として照らす、稍々砲声もしずまったかと思う時、朗々として「霜は軍営に満ちて秋気清し・・・・・・」上杉謙信作九月十三夜の詩が聞こえてくる。
それが次いて「山川草木転た荒涼・・・」乃木将軍作金州城の詩となり、又大楠公編となる。機関銃隊坂本少尉の吟声である。
志気がおのずとふるいたつ。感激の極みである。
あの時程「詩」に感動し、「吟」に感激したことはない。「時」と「場所」によって、詩と吟はいよいよ生きてくることを知った。
後に至って「聞喜城死守」の詩は戦地を巡視された侍従武官の手によって写真となり天覧に供せられるの光栄の詩となった。
ただ残念この上ないのは、未だに作者不詳で、この光栄を作者の戦友に伝えることが出来ないことである。
昭和三十五年私は松下電器の青年寮で起居することになった機会に、寮生諸君に詩吟を勤め、自らもその仲間入りして稽古に勤んだ。
その直接の動機もあの遠い昔、支那大陸に於ける感動感激が忘れられなかった為である。青年諸君が遠く故郷を離れての生活にその夕食の一とき詩吟をたのしむことが少なからずプラスになると信じたからである。 私の余生もそう長くはない。しかし私はいまだに吟を楽しみ下手ながら詩を作る。支那大陸の思い出が生きているのである。
  
 嗚呼北支派遣歩兵第七十九聯隊
     征旅堂々北支に進む
     娘関壁上軍旗耀く
     忽ち屠る霊石怒涛の勢
     長躯晋南一挙に馳せ
     黄河を制圧して敵胆を寒からしむ
     聞喜に籠城して飢餓に耐ゆ
     余山垣曲忠烈に泣く
     斯々たる武勲千載に乗る
Posted by 村上 功 at 2012年04月10日 17:58
>>村上 攻さま

私のような若輩者に貴重な連隊の詳細をご教示して頂けて
誠に有難う御座います・・・!

兵員の補充が30回にも及ぶとは・・・まさに精鋭・・・
歴戦のつわものの隊に他なりませんね・・・!

栄えある金鵄勲章の拝受された方々も多いとは
武勲に輝いた方が如何に多かったかを物語っていますね!
そして村上さまのお父上も金鵄勲章を賜ったそうで・・・
素晴らしいご活躍をなされたのですね・・・!さぞ誇りに思われていることでしょう!
祖父も同じ連隊の方が栄典されたことを誇りに感じていると思います!

しかし経緯はどうであれ戦後の金鵄勲章の扱いには残念といいますか
無念でなりませんね・・・。佩用が許可されたとはいえ、今だ日陰の存在で忌み嫌われているようで憤りを感じずにはいられません。

しかし山崎少佐の手記・・・
グッとこみ上げてくるものがあります。
このような激戦が繰り広がられ、そして何よりこのような感動があった事を
ご存知の方は多くないでしょう・・・

この詩文はこの戦友の方々にはさぞ励みとなったことでしょう。
現代を生きる私たちには無縁の世界かと思われるかもしれませんが
不屈の精神。逆境においても揺るぐことのない確固たる意思。
未曾有の天災に見舞われた昨今の日本ではございますが
戦後においても少なからず日本にもまだ『生きている』と思わずにはいられません。

また激励の詩文を書かれた方はどなたなのか。どうなされたのか。
山崎少佐だけでなく、私にも大いに気になって仕方かありません。

歩兵第七九連隊・・・・
村上様が山崎少佐の手記をご紹介して頂いて
連隊の軌跡をもっと追いたくなりました・・・!

このような貴重な手記を教えて頂けて本当に有難う御座います!
胸が熱くなりました・・・・!

さらに山崎少佐のお写真など他に写られている物がないか
探してみたいと思います!!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2012年04月10日 20:17
貴方はご存じかも判りませんが「山下奉文(ともゆき)大将」は大阪「第四師団師団長」も経験しておられます。
高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。兄山下奉表は海軍軍医少将。高知・海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(18期)、陸軍大学校(28期)卒業後、スイス、ドイツに留学し、帰国後、陸軍省軍事課長、軍事調査部長等を歴任した。 妻は永山元彦少将(騎兵第2旅団長)の長女・久子。永山少将が佐賀県の出身で、宇都宮太郎・真崎甚三郎・荒木貞夫へとつながる、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属したため、女婿である山下も皇道派として目されるようになった。
二・二六事件では皇道派の幹部として決起部隊に理解を示すような行動をした[1]。山下は決起部隊の一部の将校が所属していた歩兵第3連隊の連隊長を以前務めていて彼らと面識があり、同調者ではないかと周囲からは見られていた。このため、山下宅の電話は事件前から当時の逓信省と陸軍省軍務局(事件後は戒厳司令部)によって傍受・盗聴を受けている。決起部隊が反乱軍と認定されることが不可避となった折に、山下の説得で青年将校は自決を覚悟した。このとき山下は陸軍大臣と侍従武官長を通じて、彼らの自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出たが、これは天皇の不興を買うことになった。
事件収拾後、山下は軍から身を引く覚悟も固めたが、川島義之陸軍大臣が慰留につとめ、「朝鮮・竜山の歩兵第40旅団長」への転任という形で軍に残った。しかし、事件の影響で本省からは離れることとなった。昭和14年(1939年)9月23日に「大阪第4師団長」となった。
Posted by 村上 功 at 2012年04月11日 14:12
私は昭和16年生まれで、当時は「有史以来の出生数」でした。 昨年70才の高齢に成りましたが、「戦後67年間」を顧みて、未だに米国の「真の同盟国」では無く「属国」に過ぎません。 ドイツは「占領下」での憲法は有り得ないとはね付け「基本法」に也、独立後すぐに「ドイツ憲法」を制定しました。 
翻って我が国を見れば、「李ライン」により「竹島」と多くの「漁船」をとられ、未だに在りもせん「従軍慰安婦」と共に悩まされています。 

日本国は昭和33年4月1日迄、公娼制度があり、日本国中に「遊郭」が存在しました。 戦時中は日本軍の「占領地」に「金儲け」を考える女衒(ぜげん)達が、特に朝鮮半島では「娘を騙して」買い、兵隊さん達を相手に商売をさせました。 手当たり次第の商売が「目に余る日本軍」は場所を決めて許可をしました。 勿論多くの日本人女性も居りました。 「従軍」と名の付くのは「従軍記者」、「従軍カメラマン」、「従軍看護婦」で特に従軍看護婦さんには「召集令状(赤紙)」が来ました。  
 
昭和40年「日韓平和交渉」締結時、元日本陸軍中尉であった「朴大統領」との間で何事もスムーズに解決し、日本から莫大な「賠償金」や「八幡製鉄(後:富士と合併して新日鉄)の技術で溶鉱炉も作りました。 
日本以外の外国は植民地の要求に「インフラの投資金」を返せと言って相手にもしないそうです。    
昭和20年代「李ライン」で拿捕される日本漁船を「ニュース映画」で観て、小学生の私でも戦争に負ければ駄目、軍隊を持たなければと、情けない思いがしました。 

「朝鮮戦争時」最大のチャンスが有りました、「マッカーサー」から「吉田首相」に「憲法改正」と、「陸軍30万人」、「海軍は空母機動部隊を含む10万人」、の要請が有り、武器は全て「米国が貸与」すると言う事でしたが、吉田茂は「社会党」の力を借りて此の話を潰しました。 警察予備隊7万人で誤魔化したのです。  
何時の時代も「政治家」は党利党略、私利私欲だけが目的です、最近の政治家(いや政治屋)は余りにも程度が悪過ぎますが。 日本国以外で「集団的自衛権」、「個別的自衛権」と分けている国は有りません。 「内閣法制局」つまり時の「首相の考え」一つで、変える事が出来ます。 

昨年3月11日の大震災による「東電の原発事故発生時」、米国は無人偵察機迄飛ばし、「在日米国人に80キロ圏外」への避難を命令しました。が日本政府は「文部省」の「スピーデイー」の存在もしらず、30キロの同心円に「こだわって」、県民の方々をワザワザ「放射能の飛んでいる場所」へ移動させ、被害を大きくしました、なのに未だ遅々として復興は進んで居りません。 
私の長男は海上自衛隊のパイロット(二佐=海軍中佐)をしていますが、当時は海幕勤務で毎日防衛省の「スピーデイー」を見て飛行ルートを決めていたそうです。  

大正12年9月1日の「関東大震災」時、加藤友三郎(日本海海戦時:連合艦隊参謀長)首相が亡くなり、「総理不在」にも関わらず、9月2日山本権兵衛(日露戦争時:海軍大臣)に大命降下が下り、山本は「後藤新平」に全権を委任して、素早く見事に「帝都復興」を成し遂げたと、聞いて居ります。   

母子家庭で兄弟姉妹も無く、親の手伝いをして幼少期を過ごし、日本国の経済発展にささやかながら、貢献した世代の遺言として聞いて下さい。
{貴方達の様な人々が此れからの日本国を背負って、「世界に負けない経済力、及び軍事力の有る普通の国」にして下さい、切にお願い申し上げます。
Posted by 村上 功 at 2012年04月11日 17:36
>>村上 功さん

私も山下奉文閣下は存じ上げております!
初めて大阪の師団長だった知った時は感動を覚えました。

二・二六事件の際は閣下は陛下のご信頼を得られず
左遷に近い形になったのは心残りでしょう・・・
二・二六事件に関しては評価が分かれますが
山下閣下だけでなく日本の行く末を決定付けて事件かと思います・・・

しかし青年将校らの行動にはこの場では是か非かでは語れませんが
今の政治の実態を見ていると彼らの主張と行動には見習うべきものがあるやもしれませんね・・・

よく「自衛隊はクーデターを起こせばいいのに・・・」と耳にしますが
私も震災直後の政府対応、政権運用を目にしてみると
そう感じざるを得ません・・・

震災時における原発事故は天災なれどその後は人災、
しかも稚拙な政府対応による人災と思えてなりません。

あまりこの場で政治の話は控えたいのですが・・・
日本は「自国に誇りを持てる人間」を育てる必要があるでしょう。
生徒と範たる教師が国歌斉唱を拒むのが許されるような世の中ではいけません。

私が如き人間が時代の担い手になれるかは微妙ではありますが・・・(汗)
私を含めて若い世代の方々には「日本」という国が如何に素晴らしいか再認識して行って欲しいと思います・・・!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2012年04月11日 20:48
難しことは何もわかりませんが 父のアルバムを整理していると 龍山歩兵79連隊、 三木隊  田中巌部隊 歩兵90連隊 の文字 を見つけました。
父は現在 97才で新潟におりますが 戦友に会いたい 戦争の話を出来る人と話したい と言っています 
Posted by としぞう at 2013年04月02日 11:43
>>としぞうさん

はじめまして!としぞうさん!
御父上も龍山歩兵79連隊におられたのですね!
御存命とは・・・私の祖父は残念ながら13年前に亡くなってしまいましたが
もしかすると79連隊の戦友会で御一緒されたかもしれませんね・・・

御存知かもしれませんが大阪護国神社には龍山歩兵79連隊の
『戦友(とも)はここに眠る』碑が御座います。

亡くなった祖父はこの石碑が建てられた際に
当時の戦友と共に石碑の前で御一緒している写真が御座います。
どのような思いで祖父はこの石碑の前に立っていたのか知りたかったです。

祖父も亡くなり写真で御一緒された方ももう存命ではないと思います。
祖父は殆ど寝たきりになってしまい79連隊の戦友会との交流も疎遠になってしまったようです・・・
時の流れは本当に酷で御座います。

としぞうさまの御父上の御気持ち分かります。
孫であった私も祖父からもっと当時の話を聞けばよかったと後悔しております・・・
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2013年04月03日 06:13
早速のお返事ありがとう ございます
このメール電話で読みますと 父は涙声で 聞きいってました 
なにも知らなかったのです。。。。。 
もっと体の元気があるときに 戦友会に行きたかったでしょう 
父は衛生兵でした
写真を撮るのが好きで  戦地で映した写真も沢山あり どこかで お役に立てて頂きたく思っています  
これから 少しづつ 調べて みょうと思っています
Posted by としぞう at 2013年04月03日 14:10
>>としぞうさん

私のようなブログが御父上の御力になれましたら幸いで御座います・・・!
御父上は衛生兵をなされていたのですね。
歩兵79連隊にはいつ頃までおられたのでしょうか。
もし祖父と同時期に連隊にいらっしゃったのでしたら
アルバムに御父上が載っておられるかもしれません。

ちなみに私の祖父は第7中隊におりました。

ブログで投稿しました写真ですがいずれも画像が小さく
不鮮明の物が多いですが、もし御父上が御所望でしたら
もっと鮮明で良い写真を御用意させて頂きます!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2013年04月03日 20:57
お返事ありがとうございます。

父は昭和12年11月14日召集され 半年間79連隊の第1中隊で訓練を受けてそのあと田中巌部隊で南支に行き  昭和18年までの6年もの間 戦地で衛生兵として働いたそうです その後 昭和20年5月に再び召集され終戦となりました。
アンチョビさんの祖父様とはちょうどすれ違いかもしれませんね

石碑の前でのお写真あればみたいなぁ~
と父が言ってました
Posted by としぞう at 2013年04月04日 17:09
>>としぞうさん

昭和12年の末に招集となりますと
やはり祖父とはすれ違いになられたかもしれませんね・・・

6年間も衛生兵の御仕事本当に御苦労さまで御座います!

写真の件、了解致しました。
石碑の前の写真ですが御用意したいと思います!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2013年04月04日 19:48
早い対応有難うございます! 
田舎の父の周りはパソコン覗ける環境ではないので
上京しましたら 見せたいと思っております

もしまた 戦友会の方々の情報やお写真が手に入りましたら
宜しくお願いします  ブログの方は時々覗かせて頂きます~
Posted by としぞう at 2013年04月05日 18:43
>>としぞうさん

ご返事遅くなり申し訳ございません。

御父上の御活動、早速調べさせて頂きました!
あの御年で熱心な御活動・・・感銘を受けます・・・

看護生だけでなく私のような戦争を知らない者にも
是非御話を伺いたいものです・・・!

お元気そうな御姿で本当に感動致しました!
是非これからも私のような者のブログ宜しくお願い致します!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2013年04月08日 22:28
沢山の写真の中に父が写っていないか虫眼鏡でみましたがありませんでした。昭和13年8月27日、歩兵第79連隊補充隊応召、11月12日、第7中隊第1小隊長。昭和14年4月11日、山西省社村付近の戦闘で負傷、野戦病院、陸軍病院などで治療するも機能回復せず、復員、招集解除。所謂傷痍軍人(身体障害者)となる。昭和19年7月、三度目の招集で特設警務第458大隊応召。中目黒の防衛研究所の資料によると、負傷した当時の79連隊は、連隊長木越大佐、第2大隊長山根少佐、第7中隊長本田大尉。父は第1小隊長の岩城少尉。負傷したお蔭で南方に行かず生き残ったと言っていた。戦地の写真は2枚我が家にあります。貴殿の祖父と同じ時代に同じ連隊、の同じ大隊に所属していたわけですね。父が写っている写真があれば欲しいけどないでしょうね。
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年08月16日 11:21
>>フーテンの岩ちゃんさん

はじめまして!フーテンの岩ちゃんさん!
何と・・・!御父上は祖父と同じ七九連隊第七中隊の小隊長をなされていたのですね!
まさかこのような場で祖父と苦楽を共になされた上官殿の御子息と御会い出来るとは・・・!
光栄で御座います・・・!この時期に御知り合いになれて本当に嬉しく思います!感動です!!

御父上は負傷され傷痍軍人となられてしまわれたのですね・・・
さぞ御辛かった事でしょう・・・ですが御国の為に御勤め立派に果たされ
本当に御苦労さまでした・・・
何より有難う御座いました・・・!

御名前と時期がはっきりしておりますので
もしかしたら祖父の所有する写真に写っておられるかもしれません。
また祖父の残した従軍記に御名前があり御活躍された記載がもしかしたら
あるかもしれません・・・!
盆休みの際に写真と合わせて見ておくべきでした・・・
写真、従軍記ともに祖母の家にて保管されておりますので
確認するのに時間が掛かりますので何卒気長に御待ち頂けましたら幸いです。

このような御縁を持てまして本当に嬉しく思います・・・!
喜んで探させて頂きます・・・・!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2014年08月18日 20:45
ご返信有難う御座います。父は明治44年1月25日生まれで、本籍が愛媛県の関係で兵役は松山の歩兵第29連隊でした。勤務先が朝鮮総督府だったこともあり臨時招集では歩兵第79連隊になったのでしょう。敵弾を受けなかったら最終的に南方戦線に派遣された事でしょう。「人間万事塞翁が馬」の典型みたいです。「名誉の負傷」と云うことで昭和15年4月の紀元2600年の奉祝日に従六位勲六等単光旭日章を受章しています。戦争の事はあまり話さなかった父ですが、「撃たれて倒れたらハタと倒れて一歩も動けず微動だにできなかった」「弾は肩の骨に当たり砕けて半分は脇の下に貫通、残り半分は体内に残った。衝撃は強烈でテレビ映画のように走ったりほふく前進などできない」「倒れたら大阪出身の兵が父の体の周りに10センチ程度の土を盛り敵の狙撃を妨げてくれた」と言っていた。私が土を少し盛ったところで弾は貫通するのでは?と聞くと、弾は砂粒一つに当たっても方向を変えたりする!と言っていました。真っ暗な夜の行軍ではつれていたロバが恐怖で鳴き声を上げるので敵に居所を探られ待ち伏せされるので、止む無く銃剣で腹を刺し殺さざるを得なかった。チェコの機関銃は音も違いすぐわかり性能もよかった!と言っていた。私には戦前生まれの兄、姉がいましたが北朝鮮で命を落としています。私は昭和27年生まれで父が42歳の時の子です。母は94歳で健在で、傷痍軍人恩給寡婦年金をもらっています。父が負傷していたお蔭です。ではまた。
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年08月30日 13:08
追伸です。ブログの中の「歩兵第七九連隊第二大隊戦病死累計表」の最終ページの「摘要」の欄に、ぼやけて判読できませんが「岩城少尉」と読めそうな文字が見えます。第二大隊第七中隊の第一小隊だった父の、岩城進の可能性もありますね。父が七九連隊第二大隊第七中隊で小隊長をしていたのは正式には昭和13年11月から翌年4月までの半年間です。その前後は連隊付きでしたので負傷までの間、戦闘に参加していたのは8カ月程度と思われます。貴殿の祖父と同じ連隊の同じ大隊の同じ中隊に属していたのは間違いなさそうですね。小隊まではわかりませんが?
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年08月30日 13:52
>>フーテンの岩ちゃんさん

この度も書き込みを下さり本当に有難う御座います!
そして御返事遅くなり申し訳御座いません・・・。

御父上の体験談・・・本当に凄まじい限りで御座います。
一瞬の判断が生死を分ける・・・そう実感せずにはいられません。

御子息、御令嬢を北朝鮮で亡くされたのですね・・・
・・・・・・酷過ぎます・・・・
御父上だけでなく御家族は悲しく苦しい思いをされ御辛かった事でしょう。
何と申し上げてよいか・・・言葉が出て来ません・・・本当に・・・
ただ・・このような悲劇が繰り返されない事を切に願うのみです・・・

私は戦争を知らない親を持つ世代ですが
他人事や遠い昔のように考えず当時の人々の軌跡・・・
体験談や御話をもっと伺うべきだと感じずにはいられません。

私の祖父ですが戦前は鉄道会社に勤務しており
2回目の招集ではその経験を生かしてか鉄道関連の業務に従事したそうです。
ですが祝言を挙げて間も無くの招集だったそうで祖父母ともに
別れ別れになってかたとても寂しい思いをしたそうで御座います。
本当に酷ですね・・・

御指摘の戦病死累計表の概要の欄の文字ですが
当ブログ掲載用に撮影した画像が残っておりまして確認しました所
間違いなく『岩城少尉』で御座います。。。!
ただ前後の文は判読できませんでした・・・(汗

御時間掛かりますが・・・必ず披露したいと思いますので
何卒・・・御待ち下さいますようお願い致します!
それでは失礼致します。
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2014年09月04日 20:26
>>フーテンの岩ちゃんさん

お久し振りで御座います!
実家より従軍記を借りて来ましたので御報告させて頂きます。

昭和13年11月12日前後には第一小隊岩城少尉についての記録は無いのですが
負傷された翌14年4月11日の戦闘について記載が御座いました。

前後して10日に突如討伐作戦の命令が下り
11日火曜日に午前2時30分頃に東鎮出発、
第7中隊は尖兵中隊となり馮家庄→冷泉→河底村?へ向かいます。
しかしそこには敵影は無く
午前9時半頃、陽社村→西郭村手前500mへ差し掛かった際に
西郭村から敵の射撃が始まり戦闘が開始します。

尖兵小隊たる第一小隊は応戦攻撃しますが
この際に岩城少尉以下多数戦死傷されております。
ここで指揮班員は敵弾下救護処置を行っております。

午前11時頃には敵は山から下りて来て部隊を包囲しています。
(ここの部隊は中隊を差しているのか祖父の小隊を差しているのか不明です)
そこで中隊は西郭村を占領し、夜には陽社村へ集結(帰還)しています。

しかし敵は逆襲を行い銃砲撃は絶えず続いたようです。

この11日(火曜日)の戦闘で中隊は戦死14名。負傷19名を出しております。

戦闘はその後も続き翌12日には敵は囲壁を破って侵入し
家屋に放火しつつ本部(中隊?)に手榴弾を投げ込むまでに至ります。
敵を撃退しますが全線に渡って戦闘が続きます。
12日には9名が負傷し夜8時半頃には引き揚げ命令が出て
急造で担架を作って夜9時頃には引き揚げます。

13日(木曜日)には敵襲を受ける事無く午前7時頃に聞喜に到着し
戦傷者を第一野戦病院へ入院引き継がれます。

14日には大宅村付近にいる第二大隊主力の救援に向かい合流し
総攻撃を行いますがこの攻撃で中隊長は負傷され(20日には復帰)
指揮班長の准尉は戦死されます。
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2014年09月21日 15:15
また以前に御指摘の戦病死累計表の概要の欄ですが
あの欄には戦傷された将校3名の名前が記載されておりまして
上から順に本田中隊長、岩城少尉、谷山少尉の記載で御座いました。

14年4月11日をはじめとする戦闘で第7中隊は
中隊長、岩城少尉を含めて将校は2名負傷し准士1名戦死されています。
兵下士を含めると大きな損害でかなり熾烈を極めた戦闘だった事が伺えます。

また御写真ですが・・・こちらはまだ探していないのですが
従軍記を見ました所14年1月15日に中隊討伐参加者記念撮影、
同月20日には中隊全員会食あり。下士官以上記念撮影とありますので
岩城少尉が載られている写真は必ずあると思います。
(手元にあるかは断定は出来ませんが・・・・)
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2014年09月21日 15:35
有難う御座います。中隊長も負傷、准尉が戦死、そして父たち少尉クラスも2名負傷とは大変な戦闘の作戦だったのですね。父の話を少し思い出しました。軍刀は一般には刃先をハマグリの様に磨いで骨をも断ち切れるようにするのだが、より切れ味を増すにはカミソリの刃のように刃先を薄く磨ぐ事もある。白兵戦で弾帯を首から斜めに巻いている中国兵に日本兵が銃剣を刺したが分厚く着込んだ服と弾帯に阻まれ致命傷にならず、中国兵は自分の銃に弾を装填し始めた。父が軍刀で切り付け兵士を救ったが、一撃で軍刀の刃はボロボロの刃こぼれが出来た。と言っていた。父は、第一野戦病院→臨時陸軍病院→太原陸軍病院→石家庄陸軍病院などに転院。戦後の話として、父は公務員に復職したのだが、ある時、79連隊当時の部下が生きていて大阪でヤクザの大親分になっている事を知った。会いたいのだが、公務員の中でも監督官庁でもあり、おいそれと会いに行くわけにはいかんなあ!とニコニコしながら話していたのを思い出す。また、負傷した兵をおんぶして運ぶのはさほどでもないが、死んで硬直した兵を運ぶのは4人がかりでも大変だったと。死んだ兵隊は体中の血が抜けるので、ベルトを締めていてもズボンが抜けるくらい腹回りが細くなる。戦闘前には新しい褌に履き替え紐を強く締めて戦闘に臨むのが日本兵の覚悟だった。と・・ではまた。
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年09月24日 22:49
>>フーテンの岩ちゃん

御返事大変遅くなってしまい申し訳御座いません・・(汗

銃剣による刺突が防がれるとは・・・!
自分やだけでなく敵兵も戦慄を覚えた事でしょう。
戦場は本当に予想だに出来ない事の連続ですね・・・
生々しい白兵戦の様子が浮かんでくるようです・・・

一撃で軍刀に刃こぼれが出来てしまうとは・・・
ですが味方兵士を救われた御父上の一瞬の判断には
ただただ感服するのみで御座います・・・!

戦後の79連隊の兵士に元ヤクザの方がいらっしゃったとは・・・(笑
凄いエピソードですね・・・!どのような御仁だったのか興味が湧きます。
ですが御父上は公務員、かたや元部下の方はヤクザの親分で
全く正反対の人生を歩まれようとは・・・

死後硬直という言葉通りにやはり堅くなるのですね・・・
しかし腹回りが細くなってしまうとははじめて知りました・・・!
成程・・・そうなりますと褌だけでなく袴や帯革も強く締めたくなりますね。
新しい褌に換えて強く締める・・・おっしゃられる通り覚悟といいますか
心意気を表されておりますね・・・!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2014年10月17日 20:01
貴殿とブログの遣り取りをしている中で生前の父の話を沢山思い出しました。私の手元には歩兵79連隊の集合写真は1枚のみ、あとは負傷治療中の写真のみ。貴殿の祖父が写っているとは思いませんが、外套姿の父と二人の兵が立ちその前で下士官が一人、兵が一人座っている写真です。その写真を語る中で、こんな話を思い出しました。戦地での食事中に数人の兵がそれぞれ小指を少し切り血を数滴ずつ出してそれを酒に入れて「これで俺たちは兄弟だ」と云いながら乾杯し、その盃を払った時に下士官に滴がかかった。下士官が「汚い」と小声で言ったのが聞こえたのか一人の兵が下士官に食って掛かった。時に最前線では階級も関係なく喧嘩が起こる。その場は収まったがお互い遺恨を残したままであり、このままでは敵と戦うには問題があると小隊長の父は感じ、兵を一人呼び出し話をつけようと考えたが、逆らう場合は最悪死んでもらうしかないとも思った由。下士官が「あいつはいつも懐に剃刀を隠し持っており逆上すると何をするかわからないので気を付けてください」と心配して話をしに来る状況だった。父は「ちゃんと下士官に謝れ!それができないならこの場でお前を殺すしかない!最前線での指揮官にはそれができることはお前も分かっているだろう!」と迫った由。本気でその場でのブローニング拳銃での射殺も考えたが、兵は素直に詫びを入れ事態は収まった。後に父が敵弾に倒れた時、父の体の周りに10センチくらいの土を持ってくれたのが大阪出身のその兵であり、生き残り大阪でヤクザの大親分になった男らしい。何組の何という男なのか今となっては分からないが、単なる親分でなく、本当の大親分だったらしい。父より少し若いとして生きていたら100歳近いだろう。もはやわからないことばかりですね!
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年10月28日 23:05
追伸。ブログ中の写真の中で「⑨山西省の何処かでの鉄道線路上での記念写真」とある中隊全員くらいの規模の集合写真がありますが、最前列の中央やや右の黒っぽい外套を着た将校がいます。口ひげをはやしているような写真で左手に軍刀を握っている写真。これがうちにある写真を服装などそっくりで父ではないかとも思えるのですが如何せん小さすぎて判別できません。外套、帽子、風貌、父のような気がします。写真を比較しながら昔を思い出しています。
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年10月28日 23:21
>> フーテンの岩ちゃんさん

この度も御返事まで大変遅くなってしまい本当に申し訳御座いません(汗

戦地で血で兄弟の盃・・・男気溢れる熱い御話ですね・・・
ですが外野の下士官にはその滴が汚らわしく思われた
この温度差が何とも悲しいですね・・・

階級差があっても喧嘩はやはり起こるものなのですね。
死線を何度も越える戦地では戦友という絆が大切なのかもしれませんね。
そう実感させられる御話です・・・

御父上も少尉という御立場上、このような事態を解決しなくてはいけませんので
小隊内、分隊内の不和は士気に大いに影響しますし
それを解決するのは統率する将校の役目でもあると思います。
決して楽ではなくむしろとても厳しい御役目だと感じずにはいられません。
戦地での指揮というのは極限までの決断を迫られるのですね・・・

しかしまさか御父上が負傷された際に土を盛ってくれた兵士が
その御仁だったとは・・・(汗 驚かずにはいられません・・・!
帝国兵士として気質があったのか分かりませんが
大変義理堅く、絆を大切にされ
その筋で大成出来る御人柄だったと思うと妙に納得出来てしまいます!

この喧嘩の御話は当時もしかしたら第七中隊内で話題になったのではないでしょうか。
もしかしたら祖父も戦友と一緒にその話を聞いていたと思うと
どう思ったのかと気になりますね・・・!
(緘口令が出されてかもしれませんが・・・)

鉄道線路上での写真ですね・・・!
御写真のもう暫しお待ち下さい!
必ず鮮明な写真を御用意させて頂きます・・・!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2014年11月02日 19:06
貴殿とブログの遣り取りをしていると子供のころ父から聞いた話を思い出します。そして子供の時は理解できなかった事が人生経験を積むと理解出来ることも沢山あります。日本軍が負けた要因の一つに補給のお粗末さがあります。戦地でのタンパク質の調達は大変なようで、かなりのところ現地調達だったようです。兵隊は、米、水、鰹節は持参しても肉や魚は持ち運ばないし補給されない。父は戦地で肉を調達のためにブタをブローニングの拳銃で撃ったようですが、豚はブーブーいって逃げて行ったらしい。拳銃の殺傷力はその程度のものですね。魚を捕る時はのんびり釣り糸を垂れる余裕はないのでソフトボール大の石に穴をあけそこに黒色火薬を詰め導火線をつけて川に投げ込む。爆発と同時に水圧で魚の浮き袋が膨らみ大量に浮いてくるのを集めたようです。魚はすぐに沈むので急いで集めたと言っていました。ダイナマイトはなかったのでしょう。手榴弾も魚集めには使えなかったのでしょう。数日分のタンパクは確保されたようです。アメリカ軍のような缶詰など殆どない日本軍は現地調達しかなかったのでしょう。これでは長期戦は無理ですね。また思い出したことを書きますね!
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年11月07日 21:12
また思い出しました。お粗末と言うか不思議な話です。将校の必携物は軍刀、双眼鏡、拳銃ですが、これらは全て個人調達で国(軍隊)からは支給されないそうです。軍刀も下士官は支給さらますが将校は個人調達。何とも不思議な話しです。父の拳銃がアメリカ製のブローニングだった事を質した時に聞きました。戦争末期では拳銃の調達が出来ず友人、先輩から借りて戦地に臨んだ将校が多かったようです。父も招集を受けた若い将校にせがまれて貸したもののその方は戦死し拳銃も戻らなかったと言ってました。拳銃を持ってなくても戦争に直接は関係ない話で持たずに出征した将校もいたようです。ただ、拳銃も持たずに補充された若い将校は古参の兵に馬鹿にされる事もあり皆必死に調達したようです。敵に向けて拳銃を撃つことは殆どなく飾りに過ぎませんが持たずにはおれない雰囲気があったのでしょう。双眼鏡も戦争末期には調達が難しくなったようです。一定の恰好がつかないと心配な気持ちはよくわかります。不思議な話しです。ではまた。
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年11月08日 23:11
>>フーテンの岩ちゃんさん

貴重な御話をいつも書き込み頂きまして本当に有難う御座います!
御父上の御話、勉強になるだけでなく深く考えさせられます・・・!

現地調達(徴発)はよく行われたそうですね。
祖父の従軍記でも徴発という言葉を散見します。

しかし・・・ブローニング拳銃で豚を仕留めきれないとは・・・(汗
一般的な小口径弾の拳銃ですので・・・その程度なのでしょうね・・・
ちょっと笑えるような悲しいような御話ですね・・・

魚を採るのは即製の爆弾を使われたのですね・・・!
手榴弾云々はよく聞きますが、よく考えますと
貴重な武器の1つですので簡単に使う訳にはいきませんね。

将校任官の際は装備品購入で大分出費を強いられたそうですね。
やはり中には拳銃を用意出来なかった方もいらっしゃったのですね・・・
ですが御父上が若い将校に貸した拳銃の御話は・・・悲しい限りです。
拳銃よりも将校の方は無事帰還して頂きかったものです・・・

将校は統率する立場ですので見栄えにも気を付けなくてはいけないのでしょう。
中身だけでなく外見も配慮しなくてはいけないとは
やはり厳しい世界ですね・・・
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2014年11月20日 19:50
フーテンの岩さん、初めまして!
このプログに時折「駄文」を書き込みしています参謀本部と云います。
横槍で恐縮です。(アンチョビさん!またの横槍ゴメン!)

フーテンの岩さんの書き込みを拝見して亡き祖父の談を思い出したので・・・

当方の祖父はこのプログにも掲載させて頂きましたが陸士第43期の陸大52期の工兵科の卒業の終戦時陸軍工兵中佐でした。
その祖父が生前に良く話をしていたのは「陸軍少尉」に任官した折の事ですが、陸・海軍将校に任官すると「正八位」「奏任官」
になり陸・海軍省から「被服手当」が支給されたようです。(因みに昭和6年当事で¥230円だそうです)

これは「被服手当」の大儀ですが「帝国軍将校の体面を汚さぬ様に」との事です。
因みに大礼服でも総額で¥280円位掛かったようです。

まず祖父が困ったのは「軍刀」「拳銃」だった様です。
軍刀は祖父の父が「北清事変」「日露戦争」に将校で従軍したので、その時
の軍刀(備前長船兼光)を旧型軍刀拵のまま所持したら様です。

「拳銃」は陸軍階行社経由で「M1910コルト・ブロニング」を所持しました。

まだ昭和6年頃ですから、「被服」「武器」は比較的に手に入ったようですが
フーテンの岩さんも言われた様に「大戦末期」の将校さんは「装備品」調達
に大慌てだと言っていました。

ついでに祖父の談で興味深い(?)話を一つ・・・
陸軍の場合は比較的に「体面」に拘るけど「海軍」の場合は「有る物」を使用
したら良いと云う考え見たいです。
(そう云われたら大東亜戦争時でもアッツ・キスカ作戦でも陸軍冬装備を借用したり
海軍航空隊員の服装が区々だったり・・・)

長々と「駄文」を書き込みしました。
Posted by 参謀本部からフーテンの岩さんへ at 2014年11月21日 01:49
歩兵第79連隊には直接関係ありませんが戦争に関し父に聞いたことを思い出しました。「アメリカとの戦争が始まったとき勝てると思った?」との質問に「ひょっとしたら勝てるかもしれないと思った」と回答。「なぜ」と聞くと、「戦艦長門の40センチの大砲を見た事があり、あんなすごい大きさの大砲を持った軍艦があれば勝てる可能性がある」と当時は思ったらしい。その頃の父は予備役の傷痍軍人で朝鮮総督府に復職し朝鮮の禿山に植林をしている状況でした。「原子爆弾は知っていた?」との質問には「原子爆弾という名前は知らなかったが、マッチ箱一つの大きさで都市を壊滅出来る爆弾の開発が各国で行われている事は薄々聞いていた」と回答。職業軍人でなく普通の公務員ではその程度の情報しかない時代ですね。一つ聞き漏らしたことが今では悔いとなっている。父は傷痍軍人(身体障害者)だったのに終戦直前に三回目の招集を受け、朝鮮の鴨緑江にある水豊ダムの防衛のために高射砲陣地を造っていた。水豊ダムは戦前日本が造った東洋一のダムで今でも北朝鮮の有力な電力源になっている。聞きたかったのは「その高射砲はどこの国の飛行機を打ち落とすためだったの?」だ。参謀でもない直前まで山に木を植えていた総督府の公務員がソ連の侵攻を察知していたとも思えず、ヤルタ会談を知る由もないだろう。たかが中尉、されど中尉!仮想敵も知らずに云われるままに陣地を造っていたのか?ある程度想定していたのか?生きているうちに聞いておきたかった。
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年12月06日 21:54
>>フーテンの岩ちゃんさん

こんばんわ!フーテンの岩さん!
この度も御父上の御言葉の書き込み本当に有難う御座います!

当時は情報統制されておりますし、まして現代のように
諸外国の細かい情勢など知ることの出来る情報媒体など限定されますので
戦争に負けるはずがないと思われた方々は多かったと思います。

私は祖父からはその話は残念ながら聞けませんでしたが
祖母は大阪で空襲を経験し雲行きが怪しい事を実感したそうです。

御父上は三回目の招集で北朝鮮の水豊ダムの高射砲陣地を作っておられたのですね。
二十年には支那派遣軍や朝鮮軍は対米戦に転換されたそうですが
実際すんなりと主敵を転換出来たのか分かりませんね・・・

御父上の御立場から戦争を観ると本当に興味深いです。
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2014年12月16日 20:42
父が昭和56年に二回目の叙勲を受けるに当たり、親類に宛てた手紙の中にこんな文章がありました。(一回目は79連隊での負傷で、二回目は長年公務員として社会貢献した事によるもの)。「天皇陛下の御為にと赤紙一枚で戦地に赴きこの身に弾丸まで受けた私ですが、未だ陛下の実物に間近に接したことはありません。こんな機会はどんなにお金を積んでも出来る事では無いので何が何でも行くと○○子が私の尻を叩きます」。戦争で瀕死の重傷を負い、多くの部下を失い、引揚げのどさくさでは2人の子供を失った父母ですが、天皇陛下を恨むどころか、むしろ尊敬、敬愛している姿がそこにありました。宮中で昭和天皇皇后両陛下に会えるのがそんなにうれしいのかと思ったものです。我々戦後生まれの人間には素直に理解できない事もありますが「敬愛」という表現が妥当な感じです。「かくのごと荒野ヶ原に鋤を取る引揚げ人を我は忘れじ」と昭和天皇が詠んだ和歌に引揚者は救われたとの事も母は言っていました。ではまた。
Posted by フーテンの岩ちゃん at 2014年12月21日 18:26
>>フーテンの岩ちゃんさん

御返事が遅くなり誠に申し訳御座いません!

御父上は2度も叙勲されおられたのですね・・・!素晴らしいです・・・!
御父上が国に大きく貢献なされたのですから当然かもしれません。

陛下への敬愛の念が戦後も変わらずおありの御父上はとても信念の固い御方ですね・・・!本当に御立派です・・・!
負傷されまた御子さんまで失われたのですから不信の念を抱くのも仕方がないと思うのですが・・・
数多くの不遇を経験されながらも御父上の決然たる姿勢・・・
日本男児の模範たる姿に相違ないですね。

私の祖父は戦後も鉄道会社に勤務したのですが
駅長時代、陛下の御召し列車が通過する事になった際は
もう一世一代の重大事と感じたそうで、光栄に思いながら
いつも以上に必死に業務に励んだそうで御座います。
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2014年12月30日 22:57
初めましてコメント失礼します

義祖父が
同じ第37連隊でした
上官は細川さんで、署名などがある当時のプロフィールのようなもの?も所持
90を軽くすぎた今も存命です

このようなブログがあるとは思いもしませんでした
きっと、ブログ主のお爺様と義祖父は会話したりしていたのかな?とお写真拝見しつつ思いました
Posted by 匿名 at 2015年12月06日 09:17
>>匿名さん

はじめまして!匿名さん!
私のブログをご覧下さり誠に有難う御座います!

義祖父殿は歩兵第三七連隊に所属されておられ
現在も御元気なのですね・・・!
これからも健康に留意されいつまでも明るく楽しい日々を送られますよう
御祈り致します!

私の祖父は三七連隊での再招集時は鉄道関係の業務に従事されたそうで
恐らく軍属?として赴いた可能性が高いと思います。
もしかしたら匿名さんの上官である細川さまや匿名さん御本人と
何かしらの御話をされたかと思うと興奮しますね・・・!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2015年12月06日 16:35
初めまして。祖父(1900年生まれ)が「シナ事変でコイト部隊にいた」と母から聞き、検索したら、ここに辿りつきました。
金鵄勲章も頂いており、ここにかかれていることと符合いたしますので、
細かなことは不明ですが、「鯉登部隊」だと思います。
母曰く「激戦で、2000人くらいの人が亡くなって、おじいちゃんと数人しか生き残らなかった」とのことですが、なんかそれほどではないみたいですね~。
でも祖父も負傷して傷痍軍人となっています(後年、奇跡的に回復)ので、
激戦は激戦だったのでしょう。
うちにもアルバムがあったようなので、何連隊かとかを確認してみます。
また御教示頂きたくお願い申し上げます。
祖父は寡黙で、私たちはほとんど何も聞かされておりませんが、
時々、中国の映像を見て、懐かしそうな顔をしていました。
Posted by ムラオの孫 at 2016年01月13日 02:41
>>ムラオの孫さま

はじめまして!ムラオの孫さま!
祖父殿は鯉登部隊にいらしたのですね!
という事は歩兵第七七連隊にいらしたのでしょうか?

負傷され金鵄勲章を賜われただけでなく
無事回復されたとはその不屈の精神、そして御活躍に
心服致します・・・!さぞ不自由で辛い日々を過ごされた事でしょう・・・

祖父の従軍記に記載を見ますと当時の中国軍兵は決して侮る事の出来ない敵であった事が分かります。
神出鬼没、果敢な攻勢・・・楽な戦闘だったというの記載は御座いません。

ムラオの孫さまの祖父殿の御話もっと御座いましたら
是非もってお聞かせ頂けましたら幸いです。
稚拙なブログではありますがまた何かの御縁で同じ所属連隊だった方の
御子息や御孫さまが見て来られるかもしれません!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2016年01月15日 22:07
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