2011年06月06日

祖父の従軍写真(終) 歩兵第79・第37連隊

さて今回で祖父の従軍写真は最後になります。

以前にもしつこいぐらい記載しました通り、半世紀以上のものとはいえ、当方の祖父個人の写真、
又、所属連隊の戦友の個人写真なども含むため
基本的に無断転載はご遠慮ください
てめぇが言えたクチかYO!!ネットに載せてる時点でアウトだろw!!)とかそういうお考えの方はマジ勘弁でオナシャス。
以上ご理解の上、ご覧頂ければと思います。

今回は太平洋戦争(大東亜戦争)に従軍した際の写真をご紹介致します。

昭和15年1月17日には整備師団への帰還が命じられ、同年1月23日には大阪へ帰還し
歩兵第79連隊から歩兵第37連隊転属した後に召集解除となりました。

太平洋戦争が勃発すると同師団は動員下令が下り、祖父は召集を受けます。
召集時期など記載されている日記などは見当たらないので時期は不明ではありますが、
同連隊東南アジアへ派遣され、 スマトラ、インドシナやタイ警備任務に終戦まで当たっていました

またその従軍中、どうやら祖父は病気(マラリアか?)を患ったようで入院することになります。
写真後半で病院や患者衣姿が多いのはそのためのようです。

戦闘や戦闘や行軍の写真は殆どありませんが、当時の東南アジアの様子、建造物、人々など風俗など映しています。
ということで写真をご紹介致します。



恐らく広報用ハガキ?などの写真かと思われます
キャプションの文字も写真宣伝広報のため大量発行されているもののようです。
なので祖父の連隊の従軍写真というわけではないようです

恐らくビルマ若しくはマレー戦線の写真でしょう。残骸は英軍のハリケーン戦闘機かと思われます。

 

鹵獲兵器の山の写真(スソム・ソバー)。
地名を調べましたが具体的に何処なのか不明です・・・
英軍の遺棄した車両や砲の写真のようですね。

 

行軍中の写真。ゲヨホール・バール近し

こちらも広報用のハガキの写真かと思われます。
ゲヨホール・バールという地名は知りませんが、現マレーシアのジョホールバルの事でしょうか?

 

架橋された橋を渡る兵士たち
こちらは上記の広報ハガキのような物よりもしっかりした写真です。
連隊の写真でしょうか。

 

豪華な建造物の写真
タイもしくはカンボアジアなどの官公庁でしょうか?
今でも現存していそうな気がします。何処なのでしょうか?



ODEONのある通り
 
このODEON(オデオン)とは英国資本の映画館のことでしょうか。
日本軍の進駐もしくは占領で接収されず通常通り営業できたのでしょうかね・・・?w
少し気になります。



 タイの大型寺院と思われる場所での記念撮影

写真自体かなり超小型なので上手く撮れませんでしたがちゃんと祖父がいると思われます。
やはり皆さん襦袢姿ですね。



 現地の現地人

小さな屋台?のようですね。
パンもしくは果物ジュース?飲み物を売っているようです。

 

8人で記念撮影

先頭は将校と思いきや全員下士官ような気もします。
どうやら所属中隊の仲の良い下士官が集まって撮影したのでしょうか。

ちなみに祖父は後列の一番右端です。
第37連隊転属後、再召集を受けた頃には下士官(伍長もしくは軍曹)になっていたはずです。

 

○○文官

日本軍占領下の現地の行政を担った文官の方のようです。
文官とはいえ帯刀を許されています。

軍人ではないはずですが着用しているのは陸軍九八式若しくは防暑衣のように見受けれます。

 

馬来の果賓の写真

馬来とはマレーのことのようです。
マレーの住人から頂いたものなのでしょうか?それにしても色んな種類の果物がありますね。

 
官公庁の広場での撮影か

ここも何処なんでしょうかね・・・

 

現地人(土人?)を撮った写真

右の女性は胸があらわです・・・w
日本兵の皆さんはさぞ驚いたことでしょう・・・!

 

現地人の集落で撮った現地人の集合写真

皆さん殆どですね。まさに土人といったところでしょう・・・
まさに別世界ですね・・・

しかしどういう経緯で撮影したのかw

ちなみに土人という言葉は決して蔑称用語ではありませんよ?
支那人という呼称についても同様です。インドシナ、南シナ海って呼んでるぐらいですからね。


 

現地人の写真①


 
現地人の写真②左の写真は狩猟の際の写真か

右の女性
はかなり美人なのですが・・・・だから写真に撮ったんでしょうねw
祖父もやはり相当スケベだったのかと思ってしまいますw

 

現地女性?の写真
何故かこの1枚は現地人を撮った写真としては珍しく、普通のサイズの写真として保管されていました。
見たところ、どうやら写真館のようなところでの撮影のようです。背景が作り物の絵画のようですね。

この方は女性なのでしょうか?若い少年にも見えますし、かなり中性的な方ですね。
もしかすると祖父が好きだった現地の方だったのかもしれませんね。(かな~り推測ですがw)

 

タイ国軍騎兵と思わる写真
馬上の舟形略帽を着用しているのはやはりタイ国軍兵士だろうと推測されます。

日本軍が進駐したとはいえタイ国は同盟国ですので、このような現地兵士と鉢合わせの場面も珍しくないでしょう。

 

現地タイ兵と思しき将校(もしくは下士官)の写真

タイ国兵士と思いましたが、帽子がマレーのイスラム教徒が被る独特のソンコという帽子にも見えます。
足元はゲートル(巻脚絆)装備で変わったサーベルを携行しています。
腕時計もしていますので下士官もしくは将校と推定します。

 
笑う2人の兵士の撮影

 

現地の子供との撮影
以前紹介した日中戦争の写真でもでも子供との写真がありましたね。
まず兵士と交流するのは無邪気な子供たちなのかもしれませんね。
 


祖父の上官たちと子供の記念撮影
後ろ右が祖父です。いかにも南方な背景と服装です。
正面に堂々と座る上官とその横で片手でタバコを持っている方この2人はいかにも古参という風格ですね!
しかしそんな方達も子供が大好きのようですね!!


ココナッツと子供と兵士たちの写真

私の撮り方が悪かったせいで右端の子供が反射してエライことになってますw
前列真ん中の方は将校か下士官なのでしょうか?

この南方での祖父の従軍写真では帯刀された下士官(もしくは将校)の
皆さんの殆どは巻脚絆(ゲートル)を着用されているのです。
革脚絆や革長靴は殆ど見受けれません。

やはり湿気の多い南方では不向きなのか、それとも後方での警備任務程度では要らないのか・・・
もしくはただ単に物資不足なのか・・・・w部隊によるのもかしれませんね。

 

プノンペン駅広場での兵士たち

あのカンボジアプノンペンのようですね。後ろの建造物が駅でしょうか?
しかし・・・よくぞここまで遠くに日本軍は来たものですね・・・w

タンクトップの方もいます。駅前広場で宿営でもしてるのでしょうか?

しかし・・・・まるで旅行写真みたいな写真ばかりのような気もします。(実際は立派な任務なのですが)
皆さん楽しんでいる・・・・といった印象にも思えます。
やはり安全な占領地域であり、戦闘第一線とは天と地と程の差がありますね。

そういう点では同連隊は恵まれていた・・・と考えてしまいます・・・
一方でビルマや南洋諸島の戦場は生き地獄なのですから・・・

 

アンコールワット?と思しき建造物の写真


こちらも広報ハガキの写真のようです。

 

祖父と戦友の写真

上着袴、ベルトまでお互い違います。
の戦友の方は防暑襦袢でなく夏襦袢を着ております。

 

やたら豪勢な室内での写真
欧米資本のホテルでの撮影でしょうか?
何処での撮影か気になります。

 
病院へ入院した際の写真
兵站病院でしょうか?どれか祖父か区別できません・・・w
患者衣は着物(和服)の作りの物ようですね。
ちなみに祖父はマラリアで入院した可能性が高いかもしれません。

後ろ左端犬をおぶった眼鏡の方がなんとも言えませんね・・・・!

 

屋根の上で看護婦さんと一緒に撮影

病人看護婦一緒に屋根に上って記念撮影とは・・・・w
やんちゃというか粋というか・・・・w楽しそうでもありますねw
病院での入院生活は部隊の堅苦しい生活もなく、色んな出会いもあり
気楽そうな気もします。そうでもないかな?w

 

外套?上衣を着る患者

暑い南方のはずなので暑そうな外套?上衣?を羽織るということは彼らはマラリア患者なのでしょうか。

 

従軍写真の最後のページの写真


最後のページに載せられていた写真なのですが
こちらは祖父なのかどなたなのか判別できません

もし祖父なのなら病院を無事退院後、曹長へ階級が上がったということでしょうか。
ということは写真の軍刀は九五式下士官刀ということでしょうか。

写真自体が超小型なため拡大してよく確認が出来ません。

さて、祖父の従軍写真の紹介は以上になります。
祖父は戦後、連隊の所属中隊?の戦友会にも積極的に参加されてたみたいです。
祖母を連れて護国神社などを参拝している写真なども見掛けました。

祖父が従軍した過去の体験を戦後どのように感じ、結論付けたのかはもう聞くことはもう出来ませんが
戦後は厳格な父として家庭を担ったのは確かであります。

以上、祖父の従軍写真でした~




タグ :日本軍写真

同じカテゴリー(旧日本軍画像・写真)の記事画像
支那事変 記念寫真帖 朝鮮第二十三部隊
再うp 祖父の従軍写真② 歩兵第79・第37連隊
祖父の従軍写真③ 歩兵第79・第37連隊
祖父の従軍写真① 歩兵第79・第37連隊
旧日本軍 鹵獲火器使用写真
九九式小銃のある風景
同じカテゴリー(旧日本軍画像・写真)の記事
 支那事変 記念寫真帖 朝鮮第二十三部隊 (2016-08-13 15:54)
 再うp 祖父の従軍写真② 歩兵第79・第37連隊 (2013-03-20 12:46)
 祖父の従軍写真③ 歩兵第79・第37連隊 (2011-05-08 12:03)
 祖父の従軍写真① 歩兵第79・第37連隊 (2011-04-23 11:17)
 旧日本軍 鹵獲火器使用写真 (2011-01-14 23:16)
 九九式小銃のある風景 (2011-01-12 23:14)
Posted by アンチョビことチビ at 19:33│Comments(15)旧日本軍画像・写真
この記事へのコメント
これまで同様、決して教科書等では知る事が出来ない個人的・貴重な資料を公開してくださった事に感謝すると共に、アナタの祖父に敬意を表します。
Posted by やまさん at 2011年06月06日 20:45
素晴らしい写真をありがとうございます。
ウチの祖父は戦災で写真がほとんどやられたようで
残っている戦争遺品は無線機の修理工具のみです。
写真の方が良かったw

しっかし

「祖父もやはり相当スケベだったのかと・・」って一文を読んで

しっかりDNAを引き継いでる自覚があるんだろうな・・・・・・とwww
ほんまに右端の人美人ですね。プリントして雑のうに入れておきましょう。
Posted by tora at 2011年06月06日 21:10
>>やまさん

いえいえw何度も申し上げます通り
どなたにでもある軌跡ですよ!w

>>toraさん

おお・・・無線機の修理工具・・・
それはそれで十分貴重ですよ!!w

ご家族、ご親類がお持ちでなくても、祖父どのとご一緒だった戦友が必ずtoraさんの祖父どののご写真をを持っているはずです!
私の祖父の写真でもそうでした。必ず存在するはずです!

ちなみに・・・
男でスケベじゃない御仁はいませんぜ!!!w
私もスケベですし父もスケベですし祖父もスケベに違いありません!!w
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2011年06月06日 21:28
お久しぶりですw
自分の大叔父の話になるのですが、歩兵一二四連隊の軍人として、南京や、フィリピンなどに前進しています。
昭和18年に、ソロモン群島ガダルカナル撤退戦にて、最期を遂げたらしいのですが、死因はなぞのままでした。しかし去年、福岡の県庁にて大叔父の最後がわかりました。最後は米軍砲弾破裂したのち、肩甲骨骨折そして死亡したらしいです。その話を聞いただけで、涙だけがこぼれだしてきました。でも大叔父も喜んでると思います。
どう連隊のかたにも話を伺ってみたいものです。もし遺品があればどういうものだろうと、考えたことがあります。写真でもいいので見てみたいという気持ちもあります。
どうでもいい話でしたが、お許しくださいw
Posted by 上等兵 at 2011年06月07日 18:20
>>上等兵さん

お久しぶりです上等兵さん。
歩兵第124連隊ということは福岡でしょうか?
あのガ島でお亡くなりになられたとは・・・言葉が出ません・・
しかし上等兵さんのおっしゃる通り、最期を親族の方に知って貰えて大叔父どのも嬉しいと思われていることでしょう。
知ることは本当に何より大切なことだと思います。

ちなみに私の記憶が正しければ同連隊は確かインパール作戦にも参加していたような気がします・・・
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2011年06月07日 19:27
12枚目の写真、シンガポールのフラートンビルですね。現在はホテルになっていますが、私が南方へ移住した20年くらい前には現役の郵便局でした。ご参考まで。
Posted by mai at 2011年10月27日 11:50
>>maiさま

maiさま。わざわざ当建物の情報を教えて頂き本当にありがとうございます!
ずっと場所も知らないままでいましたもので・・・
しかし何と場所はシンガポールでしたか・・・!

とても参考になりました!
私が如きブログに書き込むを下さいまして本当に感謝しております。
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2011年10月29日 20:09
今更私の推測ですが、蒸し暑い南方で通気性の悪い
革長靴を履いていると水虫になるんじゃないかなと思います。

実際、私の祖父はそうなりましたw
Posted by hiro at 2012年02月16日 16:08
>>hiroさん

おおぅ・・w祖父殿がまさかそうなられるとは・・・・

通気性とさることながら、耐久性が持たないのも一因でしょうねぇ・・・
地下足袋姿の将兵も多々見掛けますしね!

しかし開戦初期においては革脚袢を着用している写真などもあり、
革脚袢はどうなのだろうか・・・?と疑問に思うこの頃ですw
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2012年02月19日 20:53
おはようございます!!
祖父様…カッコいいですね~
下士官だったのですね。すごいです!
因みに自分の祖父は、30師団の野戦病院で衛生伍長として、フィリピンのミンダナオ島で戦っていました。
ミンダナオ島まで輸送船で行ったのですが、米軍の艦砲射撃で、輸送船10隻の内、8隻沈んだそうで、祖父はその2隻のどれかに乗っていたそうです。
戦後は、戦友と本(販売品では無い)を作ったそうです。
勲章等はあったのですが、軍隊時代の写真はまだ見てません(汗)
実家に軍刀を持った祖父の軍人時代の写真があるそうなので、一度見てみたいです!!
Posted by オオワシ at 2012年09月29日 12:28
>>オオワシさん

おおっ!オオワシさんのご祖父さまはミンダナオへ行かれたのですね!
末期の比島は輸送船群は酷い一方的な仕打ちだったようで・・・
無事ミンダナオに着けたのはまさに天佑と思わざるを得ませんね・・・

しかし・・・多くの戦友を亡くされてさぞ辛かったでしょう・・・

是非ご祖父の従軍写真を拝見することをお勧め致します!
文章ではなく目で軌跡を見ることはオオワシさんにとって大きな意味を持つと思いますよ!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2012年10月01日 20:17
初めてのコメント失礼します。

貴重かつ素晴らしい写真をありがとうございます。
時期は違いますが、私の曾祖父が歩兵第37聯隊の留守隊長をしていましたので(もっともその後大陸で亡くなりましたが・・・)、何か縁を感じこの記事を拝見した次第でございます。
かの戦争で様々な人々の犠牲の上今があると思うともう少し襟を正して頑張ろうと思いました。

これからも記事の更新頑張ってください!!
Posted by na-am at 2013年02月27日 10:46
>>na-amさん

はじめまして!na-amさん!
書き込む頂きまして誠に有難う御座います!

曽祖父さまは歩兵第37連隊だったのですね・・・!!
同じ連隊所属でしたとは・・・光栄で御座います!
隊長をされていたのですね・・・!
ですが・・・大陸にてお亡くなりになられたのですね・・・
残念で御座います・・・

まさにna-amさんのおっしゃる通りで御座います・・・
戦争の結果はどうであれ、今の私たちは先人の方々の
犠牲の上で成り立っているのです・・・!
青春を戦争に捧げて散った方々・・・
無意味な戦争とあしらってはいけません!
それこそ非礼です・・・・!

これからも更新頑張りますのでこれからも何卒宜しくお願い致します!
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2013年02月27日 22:00
ど~も!
またまた、興味が在る記事を見っけましたので「乱入」します。
中々、今では貴重な「南方軍」の実写真ですね!

私の父方の祖父は陸軍工兵大佐でしたよ!
陸士43期で同期に内蒙古で事故死した「北白川宮殿下」や2・26事件で死刑になった
「丹羽 誠忠中尉」が居た様です。

その後陸士卒業後、関東軍指揮下の「関東軍鉄道司令部」に配属になった様です。
のちに「上原勇作元帥(工兵の神様)」の勧めで陸大に入り(陸大51期)に入った軍人でした。
「関東軍鉄道司令部付」の折は「リットン調査団」とも接した事が
逢ったとも云っていましたね。
陸大卒業後は「閑院宮総長殿下」の皇族付武官や参謀本部付を勤務
した様です。

確かにアンチョビさんや其の他の方も云われていますが、日本の
近代史の戦争の観点が替わりつつ有りますが、先人の苦労まで
「無」には出来ません!

政治論争に成るかも知れないですけど、「キムチの国」や「将軍様の国」・「豚饅頭の国」
が云いたい放題云っていますが、先人の「努力・苦労」は事実です!
(因みに上記3国と日本は戦前、「宣戦布告」をしていません!
なのに、日本に「賠償金」を要求する国です!)

我々、現代日本人も「正しい歴史感覚」を持って生きたいと
思います。
 
Posted by 参謀本部 at 2013年03月02日 00:28
>>参謀本部さん

祖父さまは工兵大佐殿だったのですね・・・!
う~ん・・・凄い経歴の御方ですね・・・
畏くも皇族の方の御傍に御使いされましたとは・・・
祖父さまはさぞ光栄に思われている事でしょう・・・!

しかもリットン調査団と接されたとは。。。
歴史の重大な転換点に立ち会われたといえるのではないでしょうか。


近代の歴史観につきましては・・・少々脱線しますし
国外からも多くの方が閲覧されておりますので割愛させて頂きますが・・・

日本にせよ旧敵国にせよ戦争で亡くなられた方々に対し
哀悼の意を示し感謝するのは国隔てなく当然です。

戦争はいけない!と能天気に思うのではなく
戦争は起こりうるものという認識に転換して欲しいものです。
Posted by アンチョビことチビアンチョビことチビ at 2013年03月03日 11:37
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。