2011年04月23日
祖父の従軍写真① 歩兵第79・第37連隊
さて久しぶりに日本軍写真の方も更新したいと思います。
今回はブログに掲載するかどうか悩みましたが、
私達の祖父達の辿った軌跡に目を向けて頂きたく思いましたので掲載致したい所存です。
まず簡単の御紹介を
私の母方の祖父は戦時中、大阪に住んでおりました。
祖父は昭和11年12月、歩兵第79連隊第7中隊に入営し、
翌12年7月に同連隊は応急動員下令され、駐屯していた朝鮮より越境し大陸の戦地へ向かいました。
祖父の従軍記によれば初の戦闘は北京郊外又は市内における警備任務の最中の便衣兵もしくはゲリラとの
戦闘とのことです。
昭和14年11月7日に復員下令されるまで幾度の作戦に参加しています。
昭和15年1月17日には整備師団への帰還が命じられ、同年1月23日には大阪へ帰還し
歩兵第37連隊に転属した後に召集解除となりました。
しかし太平洋戦争が勃発すると歩兵第37連隊は動員下令が下り、祖父は少なくても二度目の召集を受けます。
召集時期など記載されている日記などは見当たらないので時期は不明ではありますが、
同連隊は東南アジアへ派遣され、 スマトラ、インドシナやタイで警備任務に終戦まで当たっていました。
激戦地への派遣は免れましたので祖父は無事内地へ帰還しました。
既に母方の祖父は11年前に他界していますので詳細を聞くことは不可能ではありますが、
日中戦争中に従軍した際に付けた日記と従軍中の写真から大体の軌跡と雰囲気が辿ることが出来ました。
日中戦争の従軍に関しては同連隊は相当数の会戦、粛清作戦にしています。
皆さん色々評価の分かれる時代であるとは思いますが、決して避けては通れないと思いますよ。
現代人の感覚では戦争なんてナンセンス、馬鹿みたいと思われる方もいると思いますが、
そういう思考をお持ちの方こそナンセンス、夢物語でしかありませんね。
さて妙に思想っぽい暗い話は置いといて、
写真を紹介していきたいと思いますw
私のブログの画像は殆ど転載ばかりの画像で、人の事は全く言えたクチではないのですが、
この紹介する画像は無断転載禁止でお願いしますね!w
それでは早速・・・

駅ホームに集合する出征前の 兵士たち。
旧型背嚢に完全軍装ですね。
周囲の方々の見送りが華々しいのが如何にもという印象です。
また混雑の整理のためか当時の警官の姿も見えますね。

駐屯地正門より堂々出営する兵士たち。
見送る民間人や兵士たちが見えますね。

こちらは軍旗祭と呼ばれる祭りの写真です。
軍旗祭で調べて頂ければ詳細は分かりますが、
連隊駐屯で軍旗を陛下より賜った事を祝う連隊随一の祝賀行事です。
写真では女性着物を着て一見女性たちが舞っているように見えますが、
兵士たちによる仮装の可能性大ですw
祖父の出征前の駐屯地は外地朝鮮なので同地での軍旗祭かと思います。
こちらは戦地での写真ではなく訓練時を撮った写真です。
担架で兵士を背負っているのか衛生資材を運んでいるのか分かりませんw
祖父は衛生兵ではありませんので父の所属連隊の中隊衛生隊員でしょうか?
いずれの兵士も赤十字の腕章を装着し、防毒面嚢を装備しています。
こちらは架橋訓練の写真です。
木製か鉄製か分かりませんが架橋のための舟橋を大勢で背負っています。
兵士の表情から見ても相当しんどそうですね。
工兵隊の訓練写真でしょうか。
兵士たちは汗をかくためか上着は襦袢姿で作業しています。
道路を挟んで演習に臨む連隊諸兵。
二軍に分かれて最後の突撃後の白兵の瞬間でしょうか?相手方は頭に白布を巻いています。
しかし大きな道路を使ってますね。やはり堂々街中で行っているのでしょうか。
現代で実施すれば叩かれまくりでしょうね・・・
こちらは龍山(朝鮮)陸軍病院正門の写真です。
演習に臨むのか出征に臨むのでしょうか。
こちらは軍衣は冬衣ですね。
射撃訓練後の小銃手入れの様子の写真です。
野外でも手入れはこんな感じで行うんでしょうか。
ちなみにこの写真上の新聞の記事は出征後、戦地で亡くなった方の記事です・・・・
亡くなれば新聞に載るんですね・・・・この方の出生まで書かれています。
あくまで個人情報なので隠しております。
射撃訓練中の写真です。
標的への距離が短い気がしますが・・・・射撃訓練も何種類もあるのでしょうかね。
冬季なのか雪が残っています。
渡河訓練中又は船で移送中の兵士たち。
完全行軍装備のようにみえますが小銃を携行していませんね。
渡河訓練なのかただ単に移動中なのか不明ですw
行軍訓練中の兵士たち。
まだ戦地ではありません。
兵営のベッドの写真。
綺麗の整えています。
色々と物品の配置が決まっているのでしょうかね。
診断を受ける兵士。
手前の上半身裸の兵士は左脇に怪我をしていますね。
普通の診断風景なのか、兵士を集めての一斉健康診断なのか撮影用のヤラセなのか・・・w
仲のよさそうな集合写真ですね。
訓練後の写真でしょうか?革帯に銃剣は装備しているようにみえますが。
他の装備は外していますね。
朝鮮の寺社の前での撮影かと思います。
防毒面嚢を装備しています。
後に東條内閣退陣後に総理大臣へと就任する小磯国昭氏です。
朝鮮軍司令官の職にある頃のものです。
正装に身を包む御仁。
連隊長殿でしょうか・・・・?
とても煌びやかな服装です。
襟に歩兵第七九連隊所属を示す79の襟章が付いていますね。
こちらの方は大隊長殿です。
まだお若く見えますがこちらはの方は79連隊の中隊長殿です。
うーん・・・・格好よい・・・!
さて今回は以上になります。
写真の紹介は全部で4回を予定しておりますが、
先ほども書いたとおり、無断転載だけは勘弁願います!w
以上です~でわでわ~w
今回はブログに掲載するかどうか悩みましたが、
私達の祖父達の辿った軌跡に目を向けて頂きたく思いましたので掲載致したい所存です。
まず簡単の御紹介を
私の母方の祖父は戦時中、大阪に住んでおりました。
祖父は昭和11年12月、歩兵第79連隊第7中隊に入営し、
翌12年7月に同連隊は応急動員下令され、駐屯していた朝鮮より越境し大陸の戦地へ向かいました。
祖父の従軍記によれば初の戦闘は北京郊外又は市内における警備任務の最中の便衣兵もしくはゲリラとの
戦闘とのことです。
昭和14年11月7日に復員下令されるまで幾度の作戦に参加しています。
昭和15年1月17日には整備師団への帰還が命じられ、同年1月23日には大阪へ帰還し
歩兵第37連隊に転属した後に召集解除となりました。
しかし太平洋戦争が勃発すると歩兵第37連隊は動員下令が下り、祖父は少なくても二度目の召集を受けます。
召集時期など記載されている日記などは見当たらないので時期は不明ではありますが、
同連隊は東南アジアへ派遣され、 スマトラ、インドシナやタイで警備任務に終戦まで当たっていました。
激戦地への派遣は免れましたので祖父は無事内地へ帰還しました。
既に母方の祖父は11年前に他界していますので詳細を聞くことは不可能ではありますが、
日中戦争中に従軍した際に付けた日記と従軍中の写真から大体の軌跡と雰囲気が辿ることが出来ました。
日中戦争の従軍に関しては同連隊は相当数の会戦、粛清作戦にしています。
皆さん色々評価の分かれる時代であるとは思いますが、決して避けては通れないと思いますよ。
現代人の感覚では戦争なんてナンセンス、馬鹿みたいと思われる方もいると思いますが、
そういう思考をお持ちの方こそナンセンス、夢物語でしかありませんね。
さて妙に思想っぽい暗い話は置いといて、
写真を紹介していきたいと思いますw
私のブログの画像は殆ど転載ばかりの画像で、人の事は全く言えたクチではないのですが、
この紹介する画像は無断転載禁止でお願いしますね!w
それでは早速・・・
駅ホームに集合する出征前の 兵士たち。
旧型背嚢に完全軍装ですね。
周囲の方々の見送りが華々しいのが如何にもという印象です。
また混雑の整理のためか当時の警官の姿も見えますね。
駐屯地正門より堂々出営する兵士たち。
見送る民間人や兵士たちが見えますね。
こちらは軍旗祭と呼ばれる祭りの写真です。
軍旗祭で調べて頂ければ詳細は分かりますが、
連隊駐屯で軍旗を陛下より賜った事を祝う連隊随一の祝賀行事です。
写真では女性着物を着て一見女性たちが舞っているように見えますが、
兵士たちによる仮装の可能性大ですw
祖父の出征前の駐屯地は外地朝鮮なので同地での軍旗祭かと思います。
こちらは戦地での写真ではなく訓練時を撮った写真です。
担架で兵士を背負っているのか衛生資材を運んでいるのか分かりませんw
祖父は衛生兵ではありませんので父の所属連隊の中隊衛生隊員でしょうか?
いずれの兵士も赤十字の腕章を装着し、防毒面嚢を装備しています。
こちらは架橋訓練の写真です。
木製か鉄製か分かりませんが架橋のための舟橋を大勢で背負っています。
兵士の表情から見ても相当しんどそうですね。
工兵隊の訓練写真でしょうか。
兵士たちは汗をかくためか上着は襦袢姿で作業しています。
道路を挟んで演習に臨む連隊諸兵。
二軍に分かれて最後の突撃後の白兵の瞬間でしょうか?相手方は頭に白布を巻いています。
しかし大きな道路を使ってますね。やはり堂々街中で行っているのでしょうか。
現代で実施すれば叩かれまくりでしょうね・・・
こちらは龍山(朝鮮)陸軍病院正門の写真です。
演習に臨むのか出征に臨むのでしょうか。
こちらは軍衣は冬衣ですね。
射撃訓練後の小銃手入れの様子の写真です。
野外でも手入れはこんな感じで行うんでしょうか。
ちなみにこの写真上の新聞の記事は出征後、戦地で亡くなった方の記事です・・・・
亡くなれば新聞に載るんですね・・・・この方の出生まで書かれています。
あくまで個人情報なので隠しております。
射撃訓練中の写真です。
標的への距離が短い気がしますが・・・・射撃訓練も何種類もあるのでしょうかね。
冬季なのか雪が残っています。
渡河訓練中又は船で移送中の兵士たち。
完全行軍装備のようにみえますが小銃を携行していませんね。
渡河訓練なのかただ単に移動中なのか不明ですw
行軍訓練中の兵士たち。
まだ戦地ではありません。
兵営のベッドの写真。
綺麗の整えています。
色々と物品の配置が決まっているのでしょうかね。
診断を受ける兵士。
手前の上半身裸の兵士は左脇に怪我をしていますね。
普通の診断風景なのか、兵士を集めての一斉健康診断なのか撮影用のヤラセなのか・・・w
仲のよさそうな集合写真ですね。
訓練後の写真でしょうか?革帯に銃剣は装備しているようにみえますが。
他の装備は外していますね。
朝鮮の寺社の前での撮影かと思います。
防毒面嚢を装備しています。
後に東條内閣退陣後に総理大臣へと就任する小磯国昭氏です。
朝鮮軍司令官の職にある頃のものです。
正装に身を包む御仁。
連隊長殿でしょうか・・・・?
とても煌びやかな服装です。
襟に歩兵第七九連隊所属を示す79の襟章が付いていますね。
こちらの方は大隊長殿です。
まだお若く見えますがこちらはの方は79連隊の中隊長殿です。
うーん・・・・格好よい・・・!
さて今回は以上になります。
写真の紹介は全部で4回を予定しておりますが、
先ほども書いたとおり、無断転載だけは勘弁願います!w
以上です~でわでわ~w
Posted by アンチョビことチビ at 11:17│Comments(10)
│旧日本軍画像・写真
この記事へのコメント
>>参謀本部さん
ご返事遅くなってしまい申し訳御座いません!
最下段の中隊長の写真ですね?
現在、アルバムと従軍日誌ともに実家に置いてまして
中尉か少尉かは不明で御座います。
申し訳御座いません。
ご返事遅くなってしまい申し訳御座いません!
最下段の中隊長の写真ですね?
現在、アルバムと従軍日誌ともに実家に置いてまして
中尉か少尉かは不明で御座います。
申し訳御座いません。
Posted by アンチョビことチビ
at 2019年06月23日 19:17

>>兵隊チンピラさま
はじめまして!長らくご返事出来ず放置してしまい
大変申し訳御座いませんでした(汗
わざわざ当ブログにご挨拶して下さり本当に嬉しく思います。
私には勿体ない限りのご好意誠に恐縮です・・・!
これからも更新頑張っていきたいと思いますので
兵隊チンピラさまも装備の収集どうか頑張って下さい・・・!
はじめまして!長らくご返事出来ず放置してしまい
大変申し訳御座いませんでした(汗
わざわざ当ブログにご挨拶して下さり本当に嬉しく思います。
私には勿体ない限りのご好意誠に恐縮です・・・!
これからも更新頑張っていきたいと思いますので
兵隊チンピラさまも装備の収集どうか頑張って下さい・・・!
Posted by アンチョビことチビ
at 2019年06月15日 21:53

またまたの投稿で~す!
写真付いての補助文ですが、兵士が担いでいるのは「鉄船」です。
(写真の船に鉄鋲が見えます)
祖父(工兵科将校)の談ですが「渡河用鉄船:とかようてっしゅう」で何艘もボルトで
止めてその上に板を載せて友軍を渡す船のようですね
因みに重量約300Kgで一艘を14名で運搬した様です。
(写真の兵隊さんは工兵隊でしょう:実際に長距離を運ぶのは輜重兵です)
大隊長(少佐)殿は「一次大戦(青島出兵かシベリア出兵)」に従軍された方ですね
アンチョビさん似のイケメン将校さんの階級章は大尉ですか?
(と、云うのも従軍記章:昭和六年乃至九年(満州事変)一つだけ拝領しているんで・・・)
少尉か中尉では無いですか?
御教示下さい。
写真付いての補助文ですが、兵士が担いでいるのは「鉄船」です。
(写真の船に鉄鋲が見えます)
祖父(工兵科将校)の談ですが「渡河用鉄船:とかようてっしゅう」で何艘もボルトで
止めてその上に板を載せて友軍を渡す船のようですね
因みに重量約300Kgで一艘を14名で運搬した様です。
(写真の兵隊さんは工兵隊でしょう:実際に長距離を運ぶのは輜重兵です)
大隊長(少佐)殿は「一次大戦(青島出兵かシベリア出兵)」に従軍された方ですね
アンチョビさん似のイケメン将校さんの階級章は大尉ですか?
(と、云うのも従軍記章:昭和六年乃至九年(満州事変)一つだけ拝領しているんで・・・)
少尉か中尉では無いですか?
御教示下さい。
Posted by 参謀本部 at 2019年06月12日 23:35
>>参謀本部さん
ご無沙汰しております。参謀本部さん!
なんと!小磯國昭閣下の夏軍衣を所有されてたことがあるのですね!
もの凄い価値のある逸品だった事でしょう・・・
大礼服の方が相当官だったとは気づきませんでした。
袖線で判断出来るとは・・・素晴らしい見極めで御座います。
また1つ発見があり嬉しいです・・・!
ご無沙汰しております。参謀本部さん!
なんと!小磯國昭閣下の夏軍衣を所有されてたことがあるのですね!
もの凄い価値のある逸品だった事でしょう・・・
大礼服の方が相当官だったとは気づきませんでした。
袖線で判断出来るとは・・・素晴らしい見極めで御座います。
また1つ発見があり嬉しいです・・・!
Posted by アンチョビことチビ
at 2019年06月12日 21:16

久々の投稿で~す!
最近は旧軍装備品の収集に少し飽きが来てこのプログにも遠のいていましたよ・・・
でも日本史関連をPC で検索したらこの最強プログに・・・
(恐るべしホ〇アンチョビインプログ!!!)
閑話休題
写真を拝見して気になる事を
小磯国明陸軍大将(綽名:朝鮮の虎)ですね・・・
当方は以前に閣下の九八式夏軍衣(襟章付)を所持していた事が在りましたよ。
(今は閣下の肉筆掛軸だけですが・・・)
後、大礼服の写真ですが歩兵79連隊付の一等軍医正(少佐)ですね。
何故なら袖の線が金と銀色なので相当官(衛生部・主計部・軍楽部・獣医部)
が着用します。
最近は旧軍装備品の収集に少し飽きが来てこのプログにも遠のいていましたよ・・・
でも日本史関連をPC で検索したらこの最強プログに・・・
(恐るべしホ〇アンチョビインプログ!!!)
閑話休題
写真を拝見して気になる事を
小磯国明陸軍大将(綽名:朝鮮の虎)ですね・・・
当方は以前に閣下の九八式夏軍衣(襟章付)を所持していた事が在りましたよ。
(今は閣下の肉筆掛軸だけですが・・・)
後、大礼服の写真ですが歩兵79連隊付の一等軍医正(少佐)ですね。
何故なら袖の線が金と銀色なので相当官(衛生部・主計部・軍楽部・獣医部)
が着用します。
Posted by 参謀本部 at 2019年06月02日 02:46
いつもブログを拝見させていただいてます。旧軍が子供の頃から好きで装備を集める時にはここを拝見させてもらうが工程にはいってますw
ここの記事をみて挨拶させていただきたいと思う貴重な写真をありがとうございます。
これからも旧軍の装備の参考にさせていただきたいです。
ここの記事をみて挨拶させていただきたいと思う貴重な写真をありがとうございます。
これからも旧軍の装備の参考にさせていただきたいです。
Posted by 兵隊チンピラ at 2019年03月20日 13:55
画像河野悦次郎
Posted by 河野悦次郎 at 2014年06月15日 23:46
>>やまさん
さほど貴重な歴史資料とは言えるかどうか・・・w
従軍経験のあるどなた様にも所蔵していると思いますよ!
苦く辛い経験かもしれませんが思い出なのですから!!
>>忍ぶさん
いえいえ!
確かに私達の世代からしてみればテレビや本などを通してしか
60年以上前の戦争は実感することは出来ないでしょうね・・・
さほど貴重な歴史資料とは言えるかどうか・・・w
従軍経験のあるどなた様にも所蔵していると思いますよ!
苦く辛い経験かもしれませんが思い出なのですから!!
>>忍ぶさん
いえいえ!
確かに私達の世代からしてみればテレビや本などを通してしか
60年以上前の戦争は実感することは出来ないでしょうね・・・
Posted by アンチョビことチビ
at 2011年04月23日 17:43

貴重なお写真ありがとうございます。
従軍記…日本人が昔戦ったなんて…いまだに信じられません…
従軍記…日本人が昔戦ったなんて…いまだに信じられません…
Posted by 忍ぶ at 2011年04月23日 17:31
貴重な歴史的資料掲載に敬意を込めて!o( ̄ ^  ̄ o)
Posted by やまさん at 2011年04月23日 13:11
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。